白血病と骨髄移植に携わってきた血液内科医が、地域医療の橋渡し役となるクリニックを開設
はじめに、医師を志したきっかけをお聞かせください。
高校までは部活やゲームに熱中するごく普通の学生でしたが、進路を考える時期になって「自分は何をしたいのか」を真剣に考えるようになりました。両親は教育関係の仕事をしており、身近に医療関係者がいたわけではありません。それでも医師を志すようになったのは、幼くして亡くなった弟の存在が大きかったと思います。よくできた弟で、新谷和樹と名前も一字違いでとても仲がよかったのですが、交通事故により突然この世を去りました。かけがえのない存在を失うという理不尽さを目の当たりにし、「命とは何か、病気とは何かを学びたい。そして、学んだことを誰かのために役立てたい」と一念発起し、医師を志しました。
数ある診療科の中からなぜ血液内科を専攻されたのでしょうか?
血液内科を選んだ理由にも、私自身の経験が深く関わっています。農業に従事し、体が丈夫なイメージのあった祖父が、白血病であっという間に亡くなってしまったんです。「血液の病気はとても怖いものだ」という印象が強く残りました。しかしその後、かつては治療の難しかったタイプの白血病が、新しい分子標的治療薬の登場によって、“薬を飲むだけでほぼ治る”時代へと変わっていきました。20年前、医学生だった私は、この劇的な進歩に血液内科の大きな可能性を感じました。
さらに、尊敬する先輩医師の「血液内科はサンクチュアリ(聖域)だ」という言葉も、進路を決める大きな後押しとなりました。
血液疾患の患者さんは、治療中に心臓や肺、腎臓などの合併症が起きても、免疫力が低いため無菌病棟から出られません。各専門科の先生方やスタッフのご協力があってこそですが、血液内科医が主治医として責任を持ってあらゆる状況に対処しつつ診療をやり抜く必要があります。その責任の重さと診療の奥深さに魅力を感じ、この領域で力を尽くそうと決意しました。
具体的にどのような患者さんを診療されてきたのか、開業されるまでのご経歴を教えてください。

宮崎大学医学部を卒業後、東京医科歯科大学医学部附属病院(現・東京科学大学)や武蔵野赤十字病院にて初期研修を行いました。夜間救急や救命センターで小児や重症患者を含めた急性期対応や感染症診療の基礎を学びました。アメリカの感染症専門医の資格を持つ医師からグラム染色や抗菌薬の選択などの指導を受けた経験は今でも診療の礎となっています。
その後、がん・感染症センター東京都立駒込病院、多摩総合医療センターなどで血液内科医として研鑽を積み、白血病や骨髄移植を中心に診療にあたりました。順天堂大学では悪性リンパ腫や多血症など幅広い血液疾患の専門診療に従事し、大学院で遺伝子異常についての研究で博士号も取得しました。その後、再び駒込病院に戻ってからは、免疫療法や細胞治療といった新しい治療にも携わり、毎年一本は英語論文執筆を目標に臨床研究にも取り組みました。
外来と病棟、集中治療室(ICU)を走り回る日々でしたが、元気になって退院される患者さんの姿を見ると、「医師になってよかった」と心から実感したものです。
そして、2024年に「平和島駅前クリニック」を開業されました。開業を決めたのには、どのような想いがあったのでしょうか?
正直自分が開業するとは全く思っていなかったのですが、がん診療に長く携わるうちに大きな病気になる前、治った後の診療にも課題とやりがいを感じるようになったことが大きな理由です。
首都圏は血液内科のある病院が比較的多いとはいえ、大規模病院の外来は常に混み合っています。健診で血液の異常を指摘されてもすぐには受診できず、予約が1カ月先になることも珍しくありません。勤務医として、患者さんが集中し、待ち時間が1〜2時間に及ぶ状況を目の当たりにする中で、他の診療科と同様に血液内科においても大きな病院への橋渡しを担える地域のクリニックが必要だと痛感していました。

現在、「2人に1人ががんになる」といわれる時代です。がんを早期に発見し、適切な治療につなげるためには、日頃から慢性的疾患をしっかりコントロールしておくことが重要です。また、海外では「cancer survivorship(キャンサー・サバイバーシップ)」という概念のもと、がんサバイバーが抱える身体的・心理的・社会的な課題を、医療者・家族・地域社会が協力して支援する態勢が構築されつつありますが、日本ではまだ十分に認知されていません。
がんに備え、そしてがん治療後も患者さんが健康に過ごせるように、これまで血液専門医として培った経験を、今後は地域の「かかりつけ医」として役立てたい――その思いから開業を決意しました。