泌尿器科領域のがん手術に研鑽を積んだ後、一人ひとりの患者さんに深く、長く関わっていきたいと開業を決意
はじめに医師を志したきっかけをお聞かせください。
一言でいってしまえば、私が高校生の時に観た『振り返れば奴がいる』というテレビドラマがきっかけです(笑)。ある病院を舞台に、冷血な天才医師と正義感あふれる熱血医師の対立を描いた医療ドラマですが、30年たった今でも思い出すたびに胸が熱くなりますね。
ひときわ印象的だったのは、めったに感情を表に出さない冷徹な外科医が、ライバルである医師を助けようと心臓マッサージをしながら感情をあらわにするシーンです。「医者ってかっこいいな」と感動し、医師をめざそうという気持ちが湧き上がりました。
泌尿器科を専門にされたのはどうしてでしょうか?
ドラマに憧れて外科医になることを強く意識していましたので、漠然とですが、外科領域の診療科へ進みたいと考えていました。そんな折に、泌尿器科は、外科的な治療だけでなく内科的な治療にも携われる診療科であることを知りました。
一般的には、循環器内科と心臓血管外科、神経内科と脳神経外科、消化器内科と消化器外科といったように、内科と外科が分かれている診療科が多く、そのような診療科では内科で病気を診断し手術が必要なら外科に回すというような流れで複数の診療科が連携しながら一人の患者さんを診ていきます。ですが泌尿器科は、病気を自ら診断し、手術が必要な場合は自ら手術を行い、抗がん剤治療などの内科的治療も自ら行い、最初から最後まで一つの診療科で一貫した診療を行うことができます。いわば泌尿器系疾患のエキスパートであり、そこに大きな魅力を感じ、泌尿器科の道へ進むことを決意しました。
さらに、当時の泌尿器科は、腹腔鏡手術や内視鏡手術など先進的な治療にも積極的に取り組み始めた頃でしたので、自身もそういった手術に携わりたい、と考えたことも泌尿器科への思いを強くした理由の一つですね。
泌尿器科医としてのご経歴を教えてください。
神戸大学卒業後、神戸大学医学部附属病院の泌尿器科に入局してからは、泌尿器科領域における一般的な治療に携わってきました。その後、臨床現場から離れて神戸大学大学院へ進学し、尿路性器感染症の研究に明け暮れていましたが、2009年に転機が訪れます。
大学院を卒業して臨床に戻った際の配属先が、後に師と仰ぐことになる山田裕二医師が在籍する兵庫県立尼崎病院(現・兵庫県立尼崎総合医療センター)でした。山田先生は、泌尿器科領域の外科手術に数多く携わってきたその道のスペシャリストで、先生のご指導の下、泌尿器がんに対する腹腔鏡手術や開腹手術、前立腺肥大症に対するレーザー手術、尿路結石に対する内視鏡手術などさまざまな手術を経験させていただきました。また、手術の技法だけでなく、診断や術後の管理、患者さんとの接し方に至るまで幅広くご教授いただけたことは、今の私の礎になっています。
そして2012年に神鋼記念病院へ異動した後は、兵庫県立がんセンター、兵庫県立淡路医療センターに勤務。ロボット手術や経尿道的内視鏡レーザー手術の執刀など泌尿器科医としてさらに専門性を深めてきました。
外科手術の第一線で活躍されていた先生がクリニックを開業されたのには、どんな思いがあったのでしょうか?
神戸大学の医局に属しておりましたので、医局人事によって異動が多く、現に私も18年間で5カ所の病院に在籍しました。中には、異動のたびに一緒についてきてくださる患者さんもいらっしゃいましたが、さすがに数回目の転勤ともなると「異動します」とお伝えするのが非常に心苦しかったことを覚えています。
そんな中で私は、「患者さんの病気だけを診るのではなく、一人の人間としての患者さんを診たい」と思うようになり、患者さんとどう向き合うべきか自問自答を繰り返しました。外科手術は非常にやりがいがあり大好きでしたので、それを辞める決断に至るまでは困難を極めました。
しかし、今までに多くの後輩を指導し、中には優秀な外科医に成長した医師もおり、安心して手術を任せられる彼らの存在が決断の後押しをしてくれました。自分の患者さんに手術が必要になれば安心して任せられる、と思わせてくれた後輩の存在が開業の決め手となり、「外科手術の第一線から退いて、患者さんの人生と共に歩み、一人ひとりに適した医療を提供していきたい」と、2021年に「みうら泌尿器クリニック」を開業するに至ります。