学究心旺盛な小児科・小児神経科のエキスパートが、専門性を活かして地域の子どもたちを支え続ける
はじめに、村木先生が医師を志したきっかけをお聞かせください。

私が育ったのは昭和30~40年代の横浜、いしだあゆみさんの「ブルーライトヨコハマ」が流行した頃です。よく扁桃腺が腫れて発熱し、バスに乗って街中の耳鼻科に連れていかれました。伊勢佐木町に出かけるのは大好きでしたが、医者も医者通いも好きではありませんでした。
そんな私が医師を目指すようになったのは、予備校時代の同級生の影響が大きかったと思います。高校までは航空工学に興味があってエンジニア志望だったのですが、大学受験に失敗して東京の予備校に通うことになり、そこでは周りが皆、医学部志望だったので、ここで方向転換しました。入学したのは岐阜大学医学部で、郵便番号が500番、日本の真ん中にあり、当時は日本一キャンパスが狭い医学部といわれていました。6年間、柳ケ瀬と長良川の間で過ごし、運動部はバドミントン部に入っていましたが、強くはなかったですね(笑)。
医学部卒業後は広島大学の小児科に入局されていますが、なぜ小児科を専攻されたのでしょうか?
広島大学の小児科は、当時から研究が盛んで多数の論文を発表していました。私もそういった環境で学問を深めたいと思ったのが小児科を選んだ理由です。私の周りにはロールモデルになるような医師がいなかったので、診療については全く分かっていませんでした。教授面接の際、「子どもの病気はピュアだから(面白い)ね」と言われたのを覚えています。これは、代謝疾患など、「小児疾患は病因を突きとめるのに向いている」という意味です。
開業されるまでのご経歴を教えてください。
広島大学病院、広島赤十字原爆病院の小児科に勤務した後、大学院に進み、神経ペプチドの研究で博士号を取得しました。昼間は無給医局員として小児神経の外来診療をしながら、夜間や週末に大学院生として実験をするという忙しい日々でした。奨学金とアルバイトで食いつなぎましたが、当時はそれが普通でした。
私の研究テーマは「ラジオイムノアッセイを使った生体組織の神経ペプチド(ニューロテンシン)濃度測定」です。せっかく一から始めた実験ですし、この神経ペプチドについてもう少し深く追求したかったので、県北の病院に1年間勤務した後、ニューロテンシンの発見者がいる米国の研究室に「研究がしたい」と手紙を出して雇ってもらい、約3年間働きました。当時、米国は湾岸戦争をしていて、街路樹に大きな黄色いリボンが結んでありました。家族3人で出かけたのですが、職場には日本からの研究者が何人も働いていて、お互いに生活必需品を融通しあって生活しました。米国で働いてみて、ここでしている研究を帰国後も続けるのは無理だろうと感じました。研究費の規模、スタッフの数、充実した設備、情報のアクセスの良さなど、とてもかないません。
帰国後は臨床医に復帰し、大学病院に勤務したのち広島市こども療育センターに転勤、自閉スペクトラム症などの神経発達症の子どもの療育に携わりました。後でわかったのですが、当時留学先には注意欠如多動症で有名なラッセル・A・バークレー教授がおられました。何か教えを受ければよかったのですが、あとの祭りです。その後、済生会広島病院と呉医療センターの小児科にそれぞれ5年間勤務したのち開業しました。
大学病院や総合病院で小児医療に邁進されていた先生が開業医に転身されたのは、何か理由があったのでしょうか?
先ほどお話したように、私はもともとエンジニア志望でしたし、医師になってからも専門性にこだわっていたので開業医になるとは思っていませんでした。今でもNHKの「プロジェクトX」を見ると、こんな仕事をしたかったと残念に思うこともあります。ふとしたきっかけで医師になったのですが、なってみれば勤務医の生活は忙しくもとても充実した日々でした。
病気の診断をつける。そのために検査で病気の原因を見つける。そして一生懸命に治療する仕事は、自分にとって人生を賭けるのに十分価値があります。直前まで勤めていた呉医療センターは、溺水による瀕死の子どもが救急搬入されたり、新生児集中治療室は24時間未熟児に対応しており、一般病棟もほぼ満床で、医師は24時間、週末も休みなく働いていました。昨今の働き方改革の前、まだ病院に何日も泊まり込んで患者さんを治療していた時代です。この病院には臨床研究部があって、ウイルス研究の立派な設備や、薬剤部には細胞培養ができる設備までありましたが、実験どころではありませんでした。50歳を超えたある日、当直明けに突然体調を崩したことをきっかけに自分の生活を見直し、働き方を変えようと決意して実家のある広島市に戻り、2006年に「むらき小児科」を開業しました。

