「家業を継ぎたくない」という反発心で医師の道へ。異色のバックグラウンドを持ちながらも開業医の夢を実現
はじめに、医師をめざしたきっかけをお聞かせください。
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正直なところ、実家の中華料理店から脱出するために医師を選んだというのが本音です(笑)。小学生の頃から店で食器洗いや手伝いをしていたのですが、手が油だらけになるのがどうしても嫌だったんです。母方の叔父が医師で、近所の開業医の先生に親近感を抱いていたことも影響し、「店を継ぐのは嫌だ、医師になりたい」と思うようになりました。結局、両親から「店を継げ」と言われることはありませんでしたし、勉強も得意ではありませんでしたが、それでも自分なりに一生懸命努力して医師になる夢をかなえました。
川崎医科大学に進み、卒業後は川崎医科大学附属病院の放射線科に入局されていますね。
はい。がんなどの重篤な病気を早期の段階で発見し、早期治療につなげることができる点に魅力を感じ、放射線科に入局しました。ところが、実際入ってみると「自分の適性に合っていないんじゃないか」と違和感が生じたんです。
話は少し逸れますが、私は大学時代にサーフィンにはまって何度かハワイに行ったことがあり、ハワイの波がずっと忘れられませんでした。放射線科医としての適性に悩みながら、気晴らしにサーフィンを続けていたのですが、ある時思い立ったんです。「人生は1回しかないんだから、やりたいことをやろう!」と。
そこで、ハワイにある「Oriental Medical Institute Of Hawaii」という漢方と中国鍼灸を学ぶ教育機関に留学しました。今思い返しても、我ながらなんて不純な動機だろうと呆れますが、実は一番やりたかったのは「ハワイでサーフィンをすること」であって、漢方と中国鍼灸はあくまで口実でした(笑)。とはいえ、漢方を扱う医師になるには相当な努力が必要です。生薬には何百もの種類があり、その組み合わせも無限にある中で、患者さんの症状に合わせた組み合わせを考える必要があり、一筋縄にはいきません。中国で3代続く漢方医の先生に師事し、国家資格を取得するまで4年間、大学院でしっかり東洋医学を学びました。きっかけこそサーフィンでしたが、学びには手を抜かず高いレベルの知識を習得できたという自負があります。
その頃からクリニックの開業を考えていらっしゃったのでしょうか。
はい。開業は医師になった当初からの夢でした。ハワイで皮膚疾患やアレルギー疾患についても学んでいたので、帰国後は兵庫医科大学病院の内科に入局し、アレルギー性の喘息など呼吸器疾患を中心に研鑽を積んだ後、1998年に西宮市に内科のクリニックを開業しました。開業して2カ月後から一次救急の受け入れを行い、5年間救急医療にも携わりました。施設の整っていないクリニック内で、運ばれてきた患者さんが予期せぬ状態で心肺停止状態に陥り、蘇生処置を行ったこともあります。特に、目の前で幼いお子さんの命の危機が迫った時は、生きた心地がしませんでしたね。
その頃、現在も漢方薬の調剤を担当してくださっている薬剤師の先生と出会い、アトピー性皮膚炎をはじめとしたアレルギー疾患の漢方薬による治療を本格的に開始しました。当時まだ珍しかったホームページでの情報発信も功を奏し、毎日たくさんの患者さんに来ていただきました。しかし、キャパシティー以上の患者さんを診療し続けたことで患者さんに待ち時間を強いることになり、一時期は新規の患者さんの受け入れを中止せざるを得ない状況にもなりました。そこで一度、西宮のクリニックを閉じて診療体制を見直し、患者さんが治療に専念できるように完全予約制にして再出発することを決意。場所をトアロード沿いに移し、当クリニックを開業したのが2015年のことです。
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