「治らない、わからない、あきらめない」の第三内科(神経内科)を経て、「生活を取り戻す」リハビリテーションへ
はじめに先生が医師を志したきっかけを教えてください。
感動的なきっかけといったものはないんです。父親は国鉄職員で周囲に医療関係者もいない、ごく普通の家庭で育ちました。ただ、高校時代に進路を考えたとき、「人助けをしたい、世の人々のために役立つ仕事をしたい」という1点は、はっきりしていて、医師の道に進むことを決めました。
1978年に熊本大学医学部を卒業し、その後鹿児島大学の第三内科に入局。今でいう神経内科です。脳卒中の後遺症をはじめ、パーキンソン病、筋萎縮性側索硬化症などの難病の患者さんが多くお見えになるのが第三内科。当時の医局員たちの間では「治らない、わからない、あきらめない、の“さんないか”(第三内科)」という軽口があったくらいです。
そんな難しい第三内科を選ばれたのはどうしてですか?
実を言うと、学生時代は神経内科にあまり興味がなかったんです。そんな私が第三内科を選んだのは、後に鹿児島大学の学長になり紫綬褒章を受章された方で、当時第三内科の教授だった井形昭弘医師のお話に感銘をうけたからです。井形先生は「神経内科は『治らない、わからない』と言うけれども、原因のない病気はない。医師になる君たちは『治らない、わからない』病気こそどんどん勉強し、医学の進歩に貢献して欲しい」と、熱心に説かれました。
井形先生の薫陶を受け、医療人として奮起した若い医局員は多くいましたね。井形先生が指導される第三内科は非常にアカデミックな雰囲気に満ちていて、後にたくさんの医学部教授を輩出することになります。
私自身も、患者さんから頼られる医師になろうと死力を尽くして勉学に、臨床にと研鑽を重ねる日々を過ごしてきました。
神経内科を機軸に、リハビリテーションにも興味を持たれた経緯を教えてください。
1988年昭和最後の年に、今はもう閉院した霧島温泉労災病院に派遣されたのですが、そこでは、リハビリテーションへの取り組みが盛んに行われていました。第三内科で難しい病気と常に向き合っていた私には、「治すのではなく生活を取り戻す」というリハビリテーションの考え方が非常に新鮮でした。この勉強を深めればより患者さんに寄り添った診療が提供できるとの想いから、大学内に開設されたばかりのリハビリテーション科に移籍します。
当時のリハビリテーション科は、「霧島リハビリテーションセンター」の名称で、山間部の温泉地に分院として設置されていました。この時期はリハビリテーションの過渡期にあたり、田舎の温泉での療養といった旧来の形から、脳卒中や交通事故などが発症してすぐ、急性期病院にいる時から回復訓練を開始するべきだと、定説が変化しているときでした。この流れを受けて、鹿児島大学のリハビリテーション科は現在、霧島から鹿児島市の本院に移っています。
私も急性期からリハビリテーション医が介入すべきという考え方には大いに賛同し、以来20年近くたくさんの患者さんを診てきました。ただ、大学病院はその役割として急性期疾患の診療を担っていますので、症状が落ち着いたら退院していただき地域のクリニックへ橋渡しすることも多く、納得いくまでリハビリテーションに携われないことに歯がゆい思いもありました。そして、患者さんがその人らしい生活を送れるようになるところまでしっかり診たいとの想いが募り、2007年に当クリニック「きりしま内科リハビリクリニック」を開業するに至ります。