外科医、リハビリテーション科専門医とキャリアを積み、離島医療を土台に“なんでも診る”開業医に
はじめに、医師を志したきっかけをお聞かせください。

私の家族や親族には医師が多く、父も兄も医師として働いています。正直なところ、理系の科目はあまり得意ではなかったのですが、医学部に進学していた兄から「医師という職業を考えてみたら?」とすすめられたのが、高校3年生のときでした。
「人の命に向き合う」ということがどういう意味を持つのか、まずはそこを深く知りたいと思い、夏休みに“尊厳死”をテーマにした予備校の小論文講座に参加しました。死について熟考したその経験を通じて、人の命を支えることの重みや意義について改めて考えさせられ、次第に「自分も医師になりたい」という強い気持ちが芽生えました。
鮫島先生は外科からキャリアをスタートされていますが、外科を専攻されたのにはどのような理由があるのでしょうか?
医学部の学生時代、いつかは発展途上国で医療支援活動に携わりたいと漠然としたビジョンを持っていました。そのためには、「どんな環境でも通用する医師になる必要がある」と考え、外科的な手技の獲得が必須だろう、と考えたことが大きな理由です。
外科医は、手術を通じて直接患者さんの命を救うために、手術の高度な技術や全身の深い専門知識、さらにはスタッフとの高いコミュニケーション能力が求められます。私は、こうした外科医としてのスキルを身につけることで、医療設備が整っていない発展途上国や、困難な状況に置かれている人々にも貢献できるのではないかと思いました。また、父が脳神経外科医だったことも、外科医を志した理由の一つだったのかも知れません。
開業されるまでのご経歴を教えてください。
東京医科大学医学部を卒業後、同大学病院の外科第5講座(当時)に入局しました。当時は研修先を自由に選べたため、科目の枠を超えて幅広い経験が積める八王子医療センターで研修を受けることにしました。八王子医療センターは、東京医科大学病院の分院として高度先進医療を提供する一方、地元の地域医療も担っています。多種多様な病気やけがを抱えた患者さんが訪れる環境の中で、私は外科医として、呼吸器(肺)や循環器(心臓、血管)、消化器(胃、大腸など)の臓器から、骨折や関節の治療を行う整形外科まで、色々な手術に携わる機会をいただきました。また、手術技術だけでなく、麻酔科にて各種麻酔の技術も教えていただき、短い期間ながら医師としての総合力を高めることができたように思います。
その後、ありがたいご縁をいただき、鹿児島県の離島である徳之島にある総合病院に外科医として約3年間勤務。離島医療の現場では、限られた医療資源の中で幅広い診療に対応する必要があり、これまで以上に柔軟な対応力や判断力を求められる日々を過ごしました。
実際、徳之島では、どのような診療に携わってこられたのですか?
徳之島は、鹿児島から更に飛行機で約1時間かかる離島で、総合病院は島内に1つしかなく、数名の常勤医師と本土から数か月単位で研修に来る研修医とで診療を行っていました。患者さんは断られたらどこにも行き場がない状況でしたので、発熱や腹痛といった日常的な病気から、大きなけが、そしてがんの手術に至るまで、年齢性別を問わず、とにかくどんな患者さんも受け容れて診療していました。徳之島は毒蛇の「ハブ」の生息地としても知られており、「ハブ咬傷」の患者さんも、何人も拝見しました。
医療の“最初の入口”であり“最後の砦”として、専門外の診療にも幅広く対応されてきたのですね。

そうですね。離島という特性上、どうしても対応できない患者さんについては、自衛隊のヘリコプターで鹿児島や沖縄の医療機関へ搬送してもらうのですが、その際のトリアージ(治療の優先度を決める判断)や、通院が難しい患者さんへの訪問診療など、多岐にわたる役割を担っていました。
数多くの貴重な経験を積んだ中でも、特に大きな財産となったのが、全国の有名病院から島にお手伝いに来てくださる、スペシャリストから手術を直接学べたことです。離島やへき地では、最新の医療技術に触れる機会が限られることが多いのですが、当時の病院長が非常に教育熱心な方で、全国から著名な外科医を招いてくださいました。おかげで、私は様々な手術を執刀医または第一助手として、実践的な経験を積むことができました。
徳之島での「絶対に断らない医療」を通じて、地域の“かかりつけ医”として本当に求められる役割や心構えを学ぶことができました。多様な症例に対応した日々が、今の私の医師としての揺るぎない土台を築いてくれたと感じています。
2024年10月に貴院を開業されていますが、何かきっかけがあったのでしょうか?
離島での研修が終わると、新たな課題が浮上してきました。患者さんにとって治療のゴールとは、単に手術で命が助かることではなく、「家族の待つ家に帰る」「住み慣れた我が家で日々の生活を営む」「たとえ障害が残ってしまったとしても、一人一人の尊厳が保たれ、社会の一員として生き生き暮らす」ということがゴールなのだと痛感しました。
そこで、患者さんの生活をトータルに支えたいという思いから、外科医としてのキャリアから一転し、リハビリテーション科へ転向しました。まずは当時から有名で、現在の「回復期リハビリテーション病棟」の制度を作る際のモデル病院となった、高知県のリハビリテーション病院で研鑽を積みました。リハビリテーション病院では、単に医師がトップに立って治療の指示を出すのではなく、医師、看護師、介護士、リハビリのセラピスト、管理栄養士、ソーシャルワーカー、福祉用具の専門職が患者さんを中心に集まり、退院後の生活で予測される問題点や、ときには退院後の患者さんの生活の目標について、喧々囂々と議論を重ねており、それまで学んだ急性期医療とのあまりの違いに、驚きました。何とか知識も深め、リハビリテーション科専門医の資格も取得しました。その後は長崎県、神奈川県、千葉県などの有名リハビリテーション病院で同様に研鑽を重ねていきました。
そんななかで自分にも家族ができ、生まれ育った町で地域医療に腰を据えて取り組みたいと考えるようになり、ちょうど友人が主催し飛ぶ鳥落とす勢いで発展していた『ゆみのハートクリニック』の門戸を叩き、2019年には分院『ゆみのハートクリニック渋谷』で、院長を務めさせていただきました。訪問診療では、生活を診ることは当然として、さらには患者さん一人一人の『人生』に寄り添うことを学ばせていただいた気がします。その後、開業へと至ったわけです。