喘息を患う父を想い呼吸器内科医に。2代続いた接骨院の後を継ぎ、誰もが気軽に通いやすい地域密着の内科クリニックを運営
はじめに、医師を志されたきっかけと、呼吸器内科を専門に選ばれた理由をお聞かせください。

父は柔道整復師で、自宅で接骨院を開業していました。そのため、幼い頃から医療は私にとってとても身近な存在でした。もともとは祖父が開いた接骨院で、私は三代目にあたります。家族の間では、「将来は整形外科医になって接骨院を継ぐのでは」といった話も自然と出ていました。
そんな中で、私の進路に大きな影響を与えたのが、喘息を患っていた父の存在です。発作が出るたびに息苦しそうにしている姿を、幼いながらにとてもつらい思いで見ていました。「自分が医師になって、父の病気を治せたら」——そう強く思うようになったのが、医師を志す大きな原動力でした。
だからこそ、進学後は迷わず呼吸器内科の道へ進みました。呼吸に関わる疾患に正面から向き合い、あのときの父のように苦しむ人を少しでも楽にできる存在になりたい、という気持ちをずっと持ち続けています。
貴院を開業されるまでのご経歴について教えてください。
東海大学医学部を卒業後、同大学医学部付属病院の呼吸器内科に入局し、最初の6年間は、気管支喘息、肺炎、肺気腫、肺がんなど、呼吸器疾患全般に幅広く携わってきました。なかでも現在当院で注力している「睡眠時無呼吸症候群」については、当時から診断・治療の研鑽を重ねてきた分野のひとつです。
その後は自身の希望で、東海大学付属病院の救命救急センターに異動し、7年間にわたり急性期医療の最前線で多くの症例に向き合ってきました。幅広い経験を積んだ後、医局の先輩に声をかけていただき、東京天使病院にて副院長として9年間勤務。そうした経験を経て、2007年に現在のクリニックを開業しました。
東海大学医学部付属病院救命救急センターや東京天使病院では、呼吸器内科の枠を超えて、幅広い診療経験を積まれたそうですね。

はい。救命救急センターでは、まず重症患者の容体や緊急度を即座に見極め、適切な診療科や専門医へと迅速に振り分ける「トリアージ」の役割に全力を注いでいました。それに加えて、消化器外科医と連携した重症患者の応急処置、形成外科や皮膚科の先生方とともに行った熱傷(やけど)患者の治療、薬物中毒による緊急搬送例の初期対応など、各専門分野の医師とチームを組みながら、非常に多様な症例に向き合ってきました。まさに、全身を診る力と即時対応力が求められる現場であり、この経験は、今の私の診療スタイルの礎になっていると感じています。
その後に勤務した東京天使病院では、呼吸器疾患に限らず、内科全般を幅広く診療しました。併設の老人介護保険施設では、高齢の患者さんの認知症や脳卒中、骨粗しょう症といった慢性疾患にも対応する機会が多く、高齢者医療についての理解や経験も深まりました。診療の引き出しが一気に広がった、非常に貴重な時期だったと思います。
長年、責任ある役職を務めてこられた中で、開業を決意されたのには、何かきっかけがあったのでしょうか?
正直なところ、それまで自分が開業医になるとはあまり考えていなかったんです。しかし、父ががんを患い、その性質もあまり良くないタイプであることがわかりました。主治医からは、「10年元気でいられるかどうか…」という厳しい見通しを伝えられ、家族として、そして息子として、父を支えたいという思いが強くなっていきました。
そのときに、地域の方々から「先生には、ぜひこの場所で続けてほしい」「辞めずに診療を続けてくれたら安心だ」といった温かい言葉をたくさんいただいたんです。その声に背中を押され、祖父の代から70年以上にわたって受け継がれてきた地域医療を、自分の手で守っていこうと決意しました。
開業からすでに18年以上が経ちますが、診療内容などに変化はありましたか?
開業当初は、父が接骨院としての診療を続けており、私は専門である呼吸器内科を中心に、内科全般を幅広く診るスタイルで診療を始めました。
しかし、残念ながら途中で父が他界しまして、以降は内科を中心とした体制に一本化し、地域に根ざしたクリニックとしての診療を続けています。時代や地域のニーズに合わせながらも、患者さん一人ひとりにしっかり向き合うという姿勢は、今も変わっていません。
