患者さんに寄り添う優しい医療の原点は、母の背中。先端医療にも携わった幅広い経験をもとに、開業医の道へ
はじめに、先生が医師を目指されたきっかけを教えてください。
かなり昔の記憶なので、はっきりとしたきっかけは思い出せないのですが、私の母が看護師で、当時の母の勤務先は、後に私の勤務先ともなる前橋赤十字病院でした。幼いころ、母の職場に遊びに行くと医師や看護師にとてもかわいがられた記憶があります。
先生も看護師もとても家族的で、かなりおおらかな時代でしたね(笑)。ですので、病院や医療の世界を身近に感じながら育ったことが影響しているのだと思います。
次に、医師としてのご経歴もご紹介ください。
新潟大学医学部を卒業後、地元に戻り群馬大学旧第一内科に入局しました。長い歴史と伝統を誇る組織で、内分泌や呼吸器、消化器などの専門ごとに研究室が存在していました。研修医時代の私は、そこで多くの先輩医師から薫陶を受けながら過ごし、1年目から消化器系の学会にも参加させてもらうなど、充実した日々だったのを今でも覚えています。
その後、富岡総合病院内科、光病院、国立療養所西群馬病院消化器科をまわり、臨床医としての実践経験を積み重ねました。この時期もそれぞれ専門の先輩医師に消化器分野以外にも数多くのことを教わりましたし、肝臓グループに属して、勉強会に参加させてもらうなど研究の道も見据えながら活動していました。
国立がんセンターで研究に従事されたのもこの頃でしょうか?
そうです。ただ、結果的に言うと研究医の道は私には向いていなかったようです。約2年間、がん抑制遺伝子の研究に没頭したものの、特に大きな研究成果にはつながらず……。まぁ、基礎研究とは必ずしも結果が出る世界ではないのですが、とにかく患者さんと接する時間がほとんどなく、ほぼ朝から晩まで研究という生活は、私が思い描いていたものとは少し違いましたね。この時期はたくさんの専門的知識と科学的思考力を深められたことと「患者さんの生活に寄り添える臨床医の道を歩みたい」とはっきり思えたことが収穫でしょうか。
その後、群馬大学第一内科に戻り、引き続き肝臓や消化器を中心に内科医としての研鑽を重ねたあと、前橋赤十字病院で消化器科副部長の職を得ました。この頃の私は、まさに油が乗った状態だったと思います。インタビューの最初でご紹介した通り、前橋赤十字病院は母が勤めた病院でもあったので運命的なものも感じながら、毎日の診療にあたっていました。肝炎のインターフェロン治療や胃静脈瘤のカテーテル治療など新しい医療技術もどんどん登場していた時代で、残業も多いハードな医療現場でしたが、当時30代だった私は疲れ知らずで臨床医の道を突き進んでいました。
ここまでのご経歴では、まだ開業医になられる気配がありませんね。
そうですね。前橋赤十字病院に勤務した頃は私も勤務医が天職と思い、引き続き肝臓や消化器の専門医としての道を追求する覚悟でした。この頃にアメリカ国立環境衛生研究所への海外留学も経験しています。異国で家族と過ごす研究生活はとても意義深いものでした。
帰国後、伊勢崎市民病院の内科医長を務めたあと、上武呼吸器科内科病院で3年半、診療部長として勤務。この時に呼吸器疾患・アレルギー疾患・循環器疾患などの診療にも携わり、さらに高齢者医療の実践など開業に活かせる幅広い経験を積むことができました。妻の実家の医院を継承する話が持ち上がったのは、この頃です。消化器病専門医としての経歴だけでは得られなかった貴重な経験を積ませていただいて、いまでも感謝しています。
この医院を開業したのは私が44歳のときで、以来、地域医療に貢献することに邁進してきました。かつては勤務医を天職と感じたこともありましたが、今では前橋市医師会の胃がん検診内視鏡読影委員、在宅医療委員会委員長も務めさせていただきながら「開業医こそ自分の天職」と確信できるほど、充実した毎日を過ごしています。