「子どもの発達」を見守る小児科専門医として奮闘した日々
先生が医師を目指されたきっかけをお聞かせください。
父がこの「ファミリークリニック高井戸」を開業し、医師として地域医療に携わっていましたので、周りからはよく「跡を継ぐために医師になったの?」と尋ねられるのですが…。
実はそうではなく、高校時代にとある心理学の本に出会い、子どもの成長や発達に強い興味を持つようになったのがきっかけなんです。しかし、最初から小児科医を目指していたのではなく、当時は養護学校の先生になるのが目標で、そのための勉強をしていました。
それでも日常的に医療が身近にあったせいか「自分の夢や目標は、小児科医になることでも叶えられるのではないか」と考えるようになり、進路を変えて医師を志すことを決めました。
では、やはりお父様の跡を継ごうという気持ちがあったのでしょうか?
いいえ。医師を志して東京慈恵会医科大学に進みはしましたが、その時点でも父の跡を継ぐつもりは「微塵も」ありませんでしたね(笑)。だからと言って、最初から小児科医目指して一直線だったわけでもありません。初期研修のスーパーローテーション方式でいろいろな診療科を経験している期間は、小児科以外の科にもそれぞれ魅力を感じ、進路選択には迷いました。それこそ父と同じ外科医の道も学問として奥深く、手術の手技を極める世界にも憧れました。
しかし結局、小児科の道を選ばれたのは、初志貫徹ということですね。
はい。「子どもの発達を学び、成長を助け見守る存在」こそが私のもともとの夢でしたから、覚悟を決めて選びました。選んだ以上はより深く学びたいと、東京慈恵会医科大学附属病院でさまざまな症例を診てきました。
慈恵医大本院での後期研修では、小児白血病の治療に携わったり、NICU(新生児集中治療管理室)も経験したりしています。さらに、神経班という研究チームに所属し、脳症、髄膜炎、ギランバレー症候群といった神経疾患や子どもの発達についても研鑽を積んできました。また、慈恵医大第三病院では、アレルギー診療の権威である勝沼俊雄医師に指導いただき、アナフィラキシーショックや食物負荷試験などアレルギー疾患の診療にも従事しています。
その後、医局の派遣先として都立北療育医療センターに約1年間勤務し、専門医資格を取得したあとに産休をとりました。復職後は神経班の先輩医師の後継として、東京勤労者医療会東葛病院で外来副医長を約5年間務めています。そこでは主に発達障害や心身症で不登校になっている子どもなどの診察に関わりながら、精神科の診察もしていました。現在は退職し、みくりキッズくりにっく発達サポート部門で非常勤医として勤務しています。
まさに小児科医としてエキスパートの道を歩まれてきたわけですね。
周囲からは順風満帆に映るかもしれませんが、中には想像以上に過酷な現実もあって、打ちのめされそうになることもありました。たとえば、研修先の慈恵医大柏病院は三次救急(3段階ある救命救急医療体制の中で最もハイレベル、極めて重篤な患者や特殊な疾患の受け入れも行う)の受け入れ病院であり、救急搬送されてくる患者さんの中には、心停止で運ばれてくるお子さんや脳症などで意識を失っているお子さんもいらっしゃいました。
そうしたさまざまな経験を経て、父の仕事を手伝うようになった今でも、かつて担当していた患者さんが顔を見せに来てくれることがあります。当時は幼かったお子さんが、すっかり大きくなり、学校や仕事など毎日の様子を報告してくれたり、悩みを打ち明けてくれたりもします。そうやって元気に成長した姿を見守ることができるのは、小児科医として最高に幸せな時間であり、大きなやりがいを感じています。