内耳の研究と耳鼻咽喉科領域のさまざまな手術に研鑽を積んだ後、満を持して開院
医師を志したきっかけや耳鼻咽喉科を専攻された理由をお聞かせください。

少年時代、偉人の伝記が好きで色々と読みふけっていたのですが、なかでも、「密林の聖者」とよばれ、熱帯の風土病で苦しむアフリカの人たちの医療に一生をささげた「シュバイツァー」の物語に衝撃を受けたんです。「医療による人助けというのは素晴らしいな」と、中学生の頃には医師を目指すことを心に決めていましたね。
広島大学医学部に進学し、卒業後は研究に携わりたい、と同大学院の呼吸器内科に進む予定だったのですが、当時は耳鼻科医が不足していたこともあって、耳鼻咽喉科の教授に入局を熱心に口説かれたんです。
黒住教授という、それは颯爽した先生がいらっしゃって憧れを抱いたこと、またちょうど、音を電気信号に変換して直接神経から脳へ送る「人工内耳」の実用化研究も始まった頃で、革新的なムードがあったことなどから「耳鼻咽喉科もやりがいがありそうだ」と、思い切って進路を変更し、広島大学病院の耳鼻咽喉科に入局しました。
それでは、耳鼻咽喉科の医局で研究に携わってこられたのですね?
そうですね。研究がしたいという私の希望を教授が受け入れてくれましたので、入局当時は研究に没頭していました。医学学会には宿題報告というものがあり、次の学会で研究結果をまとめて報告する課題が出されるのですが、これには医局の評判、名誉がかかっていますから、全員で総力を挙げて準備をするわけです。
その一環で細胞を切片にスライスして見る「透過型電子顕微鏡」を用いた研究に携わったことをきっかけに、細胞の構造を見て機能を研究する「形態学」に足を踏み入れました。特に耳の三半規管ですね。めまいを引き起こすメニエール病などでは耳の中が内リンパ液でむくんだ状態になるのですが、その出入りを形態的に研究して、医学博士号を取得しました。この時に、病態を予想しながらひたすら細胞を研究していた経験が、いまの診たてにも役立っていると実感しています。
広島大学病院には13年ほど在籍。その間には研究だけでなく臨床医としての経験も積んでいます。特に派遣された県北のJA吉田総合病院では、副鼻腔炎、扁桃炎、甲状腺、耳下腺および顕微鏡を用いた耳や喉頭の手術に数多く携わり、研鑽を重ねてきました。その実績を見たドイツの内視鏡メーカーから共同研究者としての招待が来たこともあります。さらに、オーストラリアのクイーンズランド大学やデンマークのコペンハーゲン大学など、海外留学も経験し、知見を深めてきました。
そんな研究・臨床の年月が一段落し、経験も十分積んだと思えた1997年、ここ広島駅前に当クリニックを開業するに至ります。

