オレゴンの家族との出会いが導いた、人に寄り添う医師の原点
村松先生が医学生だった頃、アメリカを訪れた経験があると伺いました。

大学3年の夏休みに、アメリカ・オレゴン州の小さな町へホームステイしました。父が高校の教員で、アメリカとの教育交流に関わっていて、知人の医師のご家庭を紹介してくれたんです。当時は医学生でしたが、まだ「医師としてどう生きるか」までは全然考えられていませんでした。英語も話せないし、不安ばかりでしたが、ご夫婦と4人の子どもたちが本当に温かく迎えてくれて。いろんな場所に連れて行ってくれて、アメリカの“普通の家庭の暮らし”を体験できたことが、ものすごく印象に残っています。
そのご家族との出会いが、大きな転機になったんですね。
はい。今振り返っても大きかったです。滞在の最後に「クリスマスにもおいで」と言われて、その言葉を真に受けて、12月にもまた訪ねて行きました(笑)。アメリカ式のクリスマスも経験させてもらって、ますます「こんな家族の中で、医師として生きてみたい」と思うようになりました。ちょうどその頃、大学の同級生が休学して海外へ行くという話もあって、「自分もオレゴンで1年過ごしたい」と思い、僕も休学を決めました。
1年間のオレゴン滞在では、どんなことを経験されたのですか?
最初は語学学校に通いながら、再びそのご家族にお世話になりました。その後、ポートランド大学の生物学部に1学期だけ通いました。アメリカ人学生と同じ寮で暮らして、論文の書き方なども学びました。そうしてすっかり“アメリカかぶれ”になった僕は、「いつかこの国で、医者として生きたい」と本気で思うようになったんです。
そこから、実際にアメリカで医師を目指す道を模索されたのですね?
はい。どうすればアメリカで研修を受けられるのかを調べて、試験が必要だと知り、必死に勉強しました。ちょうど、ニューヨーク市に日本人医師を派遣するプログラムがあると知って応募したところ、運良く合格できました。ただ、問題は時期でした。研修が始まるのは、大学を卒業した1998年の7月から。英語力はある程度ありましたが、医師としての経験はほとんどないまま、僕はニューヨークへ旅立つことになります。
臨床経験が少ないまま、アメリカでの研修生活がスタートしたのですね。
はい。しかも、ビザの手配に時間がかかってしまい、研修が始まったのは8月中旬。1年目は“インターン”と呼ばれますが、本当に苦しい毎日でした。点滴も採血も満足にできない、英語もうまく話せない、プレゼンテーションもうまくいかない。電話で外部の医師と連絡を取るのも一苦労で……。さらに、針刺し事故も起こしてしまい、HIVの予防薬を飲むことになったりもしました。
そんな中、どうやって持ちこたえたのでしょうか?

正直に言うと、何度も「もう無理だ」と思いました。夜勤明けのぼんやりした頭で、ANAの飛行機がマンハッタンの上空を飛んでいくのを見たとき、「あれに乗って帰りたい」と本気で思ったこともあります。でも、そんなときに出会ったのが、インド出身の優しい上級医の先生でした。文化も言葉も違う僕に、毎日ていねいに向き合ってくれて、「できないことを責めるんじゃなくて、できるようになるまで一緒にやればいい」と言ってくれたんです。僕はその先生にくっついて、毎日、必死でした。自分がいかに「できない存在」かを思い知らされる毎日でしたが、それでも見捨てずに接してくれる人がいること、自分を“医師の仲間”として扱ってくれる誰かがいることが、本当に救いでした。そして、心のどこかにあったんです。──あのオレゴンの家族のように、人を大切にできる医師になりたい。たとえつまずいても、その想いだけは手放しちゃいけないと、自分に言い聞かせていました。