亡き祖父の影、そして父の背中を追って医師の道へ。巨匠たちに師事し、修行に明け暮れた若手時代
先生が医師を志されたきっかけから伺います。おじい様やお父様もお医者様だったそうですね。
はい。医師を志した直接のきっかけは、父が開業医だったことですね。幼いころから外科医として働く父の背中を見て育ちました。そしてその父の医院は、もともとは私の祖父が開いたものでした。ただ、祖父は太平洋戦争中に軍医として招集を受け、終戦の年に戦死してしまったため、私自身は生きている祖父に会ったことがありません。戦後、外科医となった父が祖父の医院を再興する形で開業したのが、現在の私の実家です。
そうすると、お父様の医院を継ぐために医師になられたのでしょうか?
いいえ。私には兄がいますので、跡継ぎになりたくて医師を目指したわけではありません。兄も私も医院で働く父に憧れ、ともに医師を志しました。ただ、血を見るのがあまり得意ではなかった兄に対して、私は父の仕事ぶりに興味深々だったのは覚えています。外科医として手術の先陣に立つ父の姿、特に看護師とも力を合わせたチーム医療で患者さんに尽くす姿を、純粋に尊敬していました。そこで、父と同じ外科医になろうと思ったのです。
父の医院の継承については、結局、皮膚科医となった兄が引き受けてくれました。私には「兄を支えて、いっしょに実家を盛り立てる」という選択肢もありましたが、「親子兄弟での医院運営はいろいろと気を遣うことも多くてたいへん」という話も、医師仲間から聞いていました。そこで私は新たにこのクリニックを開業する決心をしたのです。
では、開業までのご経歴をお聞かせください。
帝京大学医学部を卒業後、第二外科に入局しました。玄々堂君津病院で研修医生活を送った後、千葉県市原市にある帝京大学ちば総合医療センター(旧帝京大学附属市原病院)の一期生として派遣されました。「病院の立ち上げに関わった」と言えば聞こえはよいですが、配管が通ったばかりの真新しい建物には何もなく、本当にゼロからの立ち上げでした。もちろんまだ新米医師だった私は、レンタカーの運転から生活用品の買い出しといった雑用まで命じられるような状況で……(笑)当時の経験は自分が開業するときには無駄にはなりませんでしたし、今となってはよい思い出ですね。
その後、父から「もし、お前が私と同じ肛門科医を志すのならば、日本一の隅越先生に教えてもらいなさい」とアドバイスを受けたこともあって、JCHO東京山手メディカルセンター(旧社会保険中央総合病院)大腸肛門病センターの門を叩きました。そこで活躍されていた隅越幸男先生や岩垂純一先生は、当時の日本の肛門疾患治療において、まさに第一人者であった方々でした。「手弁当でもいいから勉強させていただきたい」と押しかけた私を、両先生をはじめとした、多くの先輩医師たちはとてもやさしく迎え入れてくれました。1年ほどの短い期間ではあったのですが、私はそこで多くの手術に立ち合うことができ、たくさんの教えをいただくことができました。
その後は会津にて、竹田綜合病院の外科・消化器科・肛門科に勤務されています。
はい。地元に戻って勤めた竹田総合病院では、外科医として知識や手技の幅を広げながら、数多くの外科手術に携わりました。当時はまだ腹腔鏡下手術やロボット手術のような低侵襲手術は一般的ではなく、がん治療などでは大がかりな開腹手術がメインでしたから、私もそのような手術、すなわち、胃がんや大腸がんをはじめ食道がんなどの消化器系のがん、またがん以外の消化器疾患、肛門疾患の手術など、さまざまな外科手術の経験を積んできました。
この頃も、当時竹田総合病院の副院長でおられた紙田信彦先生にはたいへんお世話になりました。ほかにも教えを請うたり、腕を競ったりした仲間の先生は数多くいます。大学病院時代も含め、先輩や友人に恵まれていた幸運が、私の医師人生をより実りあるものにしてくれたと思っています。こうして、じゅうぶんな研鑽を積み、ついには自ら開業を決心し、1994年11月にこのクリニックをスタートさせました。