3代100年以上続いた整骨院を、スポーツ医学を活かしたリハビリにも力を入れる整形外科医院に転換
はじめに、整形外科医を志したきっかけをお聞かせください。
整形外科医を志したのは、祖父や父の影響が大きかったと思います。私は、両国生まれ、両国育ちで、当院があるこの場所は、1920年頃に曽祖父がほねつぎ・柔道整復を始め、祖父、父と3代にわたって整骨院を営んでいました。
両国は、言わずと知れた相撲の街で、当院の目の前にも「時津風部屋」があります。年に3回、大相撲の本場所が行われる両国国技館のお膝元で、今で言うところのチームドクターのように、力士たちに頼りにされながら施術する祖父や父の姿を見て育ちました。
「自分も祖父や父と同じ道を歩みたい」という思いに加えて、私自身スポーツが好きで、子どもの頃からサッカーやサーフィンをやっていましたので、スポーツ医学を学びたくて整形外科医になることを決めました。
開院されるまでの経緯を教えてください。
いずれは両国に戻って、父と一緒に仕事がしたいと考えていましたので、開院するまでの約15年間、とにかく数多くの経験を積みました。
愛知医科大学医学部を卒業後、日本大学の整形外科医局に入り、「スポーツ医学研究班」に属して学びました。日大のスポーツ医学研究班というのは、スポーツ競技の能力向上やケガの治療、メンタルコントロール、復帰に向けたリハビリ・トレーニングなどを科学的に研究するドクター集団です。その中で、小学生やアマチュア、トップアスリートまで様々なレベルのスポーツ競技者の治療に携わってきました。
また、駿河台、板橋、光が丘の各日大附属病院をはじめ、横須賀市民病院、災害医療センター、板橋区の医師会病院など、大学病院や基幹病院、地域の中核病院に勤務し、スポーツ障害の治療を中心に、内視鏡による関節内手術、人工関節置換術、脊椎などの手術に携わり、変形性膝関節症などの高齢者の変性疾患や関節リウマチの治療も含めて、整形外科領域の幅広い症例の臨床経験を積んできました。
スポーツ選手の治療に携わることも多かったのですか?
そうですね、実戦の現場に出向いて、ラグビーやアメリカンフットボールの選手のメディカルサポート活動をしていたことがあります。その関係で、2021年に開催された東京オリンピックでは、サーフィン日本代表選手のメディカルサポートに入っていました。
さまざまな臨床経験を経て、2016年7月に開院されたのですね。
2011年3月の東日本大震災で、もともと老朽化していた整骨院の建物のあちこちが損壊してしまいまして、それをきっかけに1階をクリニック、2階をリハビリテーション室として「岡野整形外科」を開院しました。2階のリハビリ室では父にも施術を手伝ってもらっています。