下町浅草の歯科医院の三代目は野球少年。あえて親の跡は継がず、稲毛海岸の地に開業
先生は生まれたご実家も歯科医院だと伺いました。
はい。東京浅草で祖父母が歯科医院を営んでおり、自宅が歯医者という環境で生まれ育ちました。父も歯科医師で、私が跡を継ぐことになれば三代目という環境でした。しかし、当時の私は、跡継ぎの自覚などなく、どこからどう見ても下町育ちの普通の少年でしたね(笑)。所属していた野球チームの練習に明け暮れる毎日で「いつかは親の跡を継いで歯医者になるのかな」とは思いつつも、伸び伸びと自由な少年時代を送っていました。
中学に上がると、音楽に熱中して、クイーンやカーペンターズなどのコンサートにも足を運びましたし、高校ではバスケット部に入部して練習に励む毎日でした。いよいよ進路選択というときになって、いちおうは歯科医になる決心をして東京歯科大学への進学を決めましたが、それでもなお「卒業後はビジネスマンにも挑戦してみたい」と思っていたんです。
なぜビジネスマンになりたかったのでしょうか?
はっきりとした理由は思い出せませんが、実家は自営業とも言える歯科医院でしたから、会社勤めの親がいる友人の家庭をうらやましく感じた時期があったのは事実です。コンピュータ関連の会社や外資系企業などがもてはやされた時代でもあったので、スーツを着てオフィス街を忙しく動き回る自分の将来を夢想していました。単純な見た目のかっこよさに憧れていたのかもしれませんね(笑)。
大学卒業後は順調に歯科医の道を歩まれているように見えます。
大学での学びは刺激的で、やはり歯科医の道を選んでよかったと思えるものでした。というのも、歯科治療というのは単に虫歯を治したり、歯や口の中をきれいにしたりするだけではありません。「自分の歯で嚙む」というごく当たり前のことを支えることで、患者さんの健康全体を支えることにつながるのです。しかも、それは生涯にわたって続き、その人の生活の質に直接影響します。
こうした考えは現在私が経営するすべてのクリニックに共通する、根本的なコンセプトへと発展していくのですが、ともあれ歯科医師のやりがいを見出した私は、ひたすらに修練を積むことになります。いつしかビジネスマンへの憧れは消え「祖父や父のように患者さんに慕われる、腕のよい歯科医になりたい」と心から思うようになっていました。
その後はご実家の医院を継承されることなく、若くして開業を果たされています。
はい、実は1つ目の転機は大学在学中に訪れました。父から「医院は継がなくていい」と言われたのです。実家の医院があった浅草周辺は今でこそ再開発も進み活気づいていますが、当時は人口減で高齢化が進む地域であり、父が継いだ以降もご高齢の患者さんが増えていました。そういう事情を気遣ったのかもしれませんし、もしかしたら「跡継ぎのことは気にせず自分の信じる道を進みなさい」という父からのエールだったのかもしれません。
2つ目の転機は、当時はまだ今ほど一般的ではなかった「インプラント治療」との出会いです。大学病院に1年勤めた後に就職した東銀座のクリニックでは、すでにさかんにインプラント治療が行なわれていました。私自身もそこで数多くの患者さんの治療に携わり技術の習得に励むとともに「常に最新技術を学び、患者さんのニーズにこたえて取り入れていく」という基本姿勢を身につけました。そこで約2年の勤務を経て、この稲毛海岸の地を新天地と決め開業するに至ります。
そこから30年以上、この稲毛海岸周辺で医院を盛り立ててこられたのですね。
はい。決して平坦な道のりではなかったものの、「患者さんのためになることは何でも勉強する」という姿勢で進んだ結果、今の私があります。開業まもないころの医院を手伝いに来てくれていたのが私の妻で、がむしゃらに働く私を献身的に支え続けてくれた彼女にも感謝しています。
千葉ベイエリアとして発展していく街の成長に合わせて、歯科医院として成長してこれたことも、幸運でしたね。もともと大学時代に通った縁でこの地域に惚れこみ新天地と決めたのですが、この数十年で、稲毛海岸の街もさらに魅力的になったと感じています。これからも、この街の人々とともに歩んでいけたら幸せです。