50年以上にわたり耳鼻咽喉科領域を超えて地域の医療ニーズにくまなく対応。父子二人三脚の新体制でも"よろず相談所"の役割を担う
はじめに、医師を志したきっかけをお聞かせください。

【浩志副院長】私はもともと大分大学の理工学部に通っていましたが、将来の道筋がなかなか見えずに悩んでいました。そんなとき、当院を運営していた父から「後を継いでほしい」と声をかけられたことが転機となり、医師を志す決意を固めました。
【祥典院長】私の場合は、祖父と父の影響が大きかったと思います。子どもの頃、当院には入院設備や手術室があり、祖父も父も朝から深夜までほとんど家に帰らずに患者さんを診ていました。そんな背中を日常的に見て育ったので、「自分もいずれ医師となり、この病院で働くのだろう」という将来像は自然に描かれていましたね。
開業医として貴院に入職されるまでのご経歴を教えてください。

【浩志副院長】川崎医科大学医学部に入学し、卒業後は同大学附属病院の耳鼻咽喉科に入局。いくつかの関連病院で診療に携わりながら大学院にも進学して学位を取得しました。もともと将来的に開業医になることを見据えていたため、地域医療に役立つ幅広い知識と経験を積むことを重視してきました。当時は医師の数が限られていたこともあり、耳・鼻・のど全般にわたり多彩な症例を経験でき、大学院での臨床研究とあわせて実践的な研鑽を積むことができたと思います。
【祥典院長】私は川崎医科大学附属高校から医学部へと進学し、卒業後は附属病院の耳鼻咽喉科に入局しました。大学病院や関連病院での5年間は頭頸部腫瘍の診療を中心に取り組み、耳鼻咽喉科専門医の資格を取得。その後は川崎医科大学総合医療センターで診療に携わり、耳・鼻・のどの幅広い疾患を担当しました。特に副鼻腔炎の内視鏡手術は症例数も多く、豊富な経験を積むことができたと自負しています。
貴院に入職された時期ですが、何かきっけがあったのでしょうか?
【浩志副院長】祥典先生が小学校に入学するタイミングで、医院を継ぐために地元へ戻ってきました。それ以降、2024年、初代院長が勇退するまで、二人三脚で地域医療に尽力してきました。この地域は昔から医療資源が十分とはいえず、耳鼻咽喉科だけにとどまっていては患者さんのニーズに応えられません。そのため、小児科医院が増えるまでは急性疾患を含め小児科も診ていましたし、現在も救急車の受け入れや急患対応を続けています。受診先がなくて困る方を一人でも出さないよう、「来るもの拒まず」で初期診療に努めてきたのです。
【祥典院長】私は大学院で、頭頸部腫瘍の中でも世界的に増加しているHPV(ヒトパピローマウイルス)感染が原因の中咽頭がんと、非HPV関連の中咽頭がんとの予後の違いについて、病理学的な研究に取り組みました。学位取得後、祖父が90歳を迎える節目で引退を希望したため、2024年11月に院長職を引き継ぎ、父とともに医院を運営しています。
【浩志副院長】本来なら私が院長を継ぐのが自然な流れですが、これからは時代に即した新しい取り組みが必要だと考え、息子にバトンを渡しました。私は副院長として二診体制を支えながら、これまでと同じように“地域のよろず相談所”としての役割を果たしていきたいと思っています。
