心臓血管外科のスペシャリストが急逝した父親の遺志を受け継ぎ、中医学・漢方治療を軸とする東西融合医療の道へ
はじめに、清水先生が医師を志されたきっかけと、外科を専門とされた理由をお聞かせください。

両親ともに医師で、とくに母方は江戸時代から代々医師を継いできた日本で3番目に古いと言われている医師の家系でした。そうした家庭環境で育った私は、“医師になるのが当たり前”という空気の中に身を置いていたように思います。思春期には一度その道に反発した時期もありましたが、自然と医師の道を志すようになりました。
父は外科医、母は内科医で、私が小学校2年生のとき、2人で現在の場所に当院を開業しました。日々、父が患者さんと真摯に向き合う姿を見て育ったことが、同じ外科を志す大きな原動力になったと思います。医学生の頃から外科系への進路を固め、最終的には心臓血管外科を専門に選びました。
心臓血管外科には、どのような魅力を感じられたのでしょうか?
外科治療が必要な病気といえば、まず「がん」を思い浮かべる方が多いと思います。がんの手術の多くでは、病巣を切除して治癒を目指すのが主な目的ですが、完治せず延命に留まり再発してしまうことも多々あります。心臓外科手術の場合は少し性質が異なり、「機能の再建」に重きが置かれます。つまり、損なわれた機能を修復し、ふたたび正常な働きを取り戻すことが目的になるのです。
そのぶん、心臓の手術は非常に繊細で、求められる技術水準も高くなりますが、緊急手術を要するような重篤なケースを除けば、術後に元どおりの生活を取り戻せる可能性が高いという点に大きなやりがいを感じました。
貴院を継承されるまでのご経歴をお聞かせください。
秋田大学医学部を卒業後、仙台オープン病院で臨床研修を行い、その後、東北大学の心臓血管外科に入局しました。以降は、東北公済病院や水戸医療センターといった地域の基幹病院に勤務し、冠動脈バイパス手術や心臓弁膜症、大動脈疾患の手術など、主に成人を対象とした心臓外科手術に数多く携わってきました。一部では小児の心臓手術を担当する機会もあり、幅広い症例を経験しています。
入局と同時に東北大学大学院にも進学して学位を取得し、その後、心臓外科医としての研鑽を積み重ねたほか、開業まで勤務していた仙台医療センターでは当時全国的にも症例数の多かった重症筋無力症の手術治療にも積極的に関わりました。そのような中で、幅広い臨床経験と高度な技術を習得したのち、継承することとなりました。
10数年間、第一線で執刀を続け、仙台医療センターではICU(集中治療室)の主任も務めてこられた清水先生が、ご実家の医院を継承されるに至った背景には、どのようなきっかけがあったのでしょうか?
直接のきっかけは、父の急逝でした。病名は急性大動脈解離で、突然死に至ることも多い病気です。突如発症した父は私が勤務していた仙台医療センターに救急搬送され、私自身が執刀し緊急手術を行いましたが、すでに病状は非常に悪く、力及ばず救うことはできませんでした。もともと、実家の医院を継ぐつもりはなく、勤務医として心臓外科医の職務を全うする考えでした。ただ、自分の勤める病院に父が運ばれてきて、その命をこの手で救えなかったという現実に、医師としても息子としても、どうしようもない無念と申し訳なさが残りました。
そして何より、父が力を注いでいた中医学・漢方治療を求めて、全国各地から通ってくださっていた患者さん達の存在が、私の背中を押しました。父の死によってその患者さん達の診療を途絶えさせるわけにはいかない──そう強く思い、医院を継承することを決意しました。
2005年に医院を継承された際、お父様が尽力されていた中医学・漢方治療も引き継がれたのですか?
漢方治療は当院の大きな特色の一つで、父の代から多くの患者さんが全国から通ってくださっていました。その期待に応えるためにも、父が取り組んでいた中医学・漢方の医療をしっかり継承しようと決意しました。
しかし私はそれまで心臓血管外科の分野で西洋医学の最先端を学んできましたが、中医学・漢方治療についてはゼロからのスタートでした。そこで、父が所属していた東京などの研究会に足繁く通い、父が信頼していた漢方の先生に直接ご指導いただくなどして、基礎から学びました。また、かつて父の医院に留学しておられた中国・吉林省の中医学の先生が、帰国後、現地の人民病院の中医科で主任を務めておられると聞き、何度も現地を訪ねて教えを受けました。独学も含め、地道に研鑽を重ねるなかで、父が大切にしていた「西洋医学と東洋医学の融合」という理念──すなわち“東西融合医療”を、自分自身のスタイルとしても確立することができました。現在もその精神を大切にしながら診療にあたっています。
